昭和42年08月01日 朝の御理解
此処の所毎日、うだる様な暑さの中に、暑い暑いと言うてばっかりではすまんと思うので御座いますけれども、実際いこう暑いと、やり切れないと言う様な気が致します。そういう、その中に何とか生き生きとした喜びをもって、その暑さ暑さを感じさせない、暑さを感じんですむ位なおかげを頂けたならとこう思うんですが、どうですか、皆さんそう言う風に感じられないですか。
暑い事は間違いない暑いのです。けれども、今朝はどうも朝からもうびっしょりですね。御祈念終った後、びっしょり、今日なんか私、もう出てじっとしとるだけでも汗がびっしょり。今日は若い人達は皆、夕べ福岡から迎えに来たんでしょう、夜中、夜中の海水浴に行っているんです。
それでまあ、ホイクテレビがあった訳ですが、何時もあそこに、もうあの内殿の所から戻っても、蚊が出てくるんですよね。それで今日は、線香をたいてないもんですからもう、御祈念しとると、所かまわず真赤になる様に蚊に咬まれて、やっぱり線香を薫いておるとは有難いと思いました。その様にですね、蚊に咬まれると言う事でも、あの確かにそれはもう、苦しい実にせつない事では御座います刺され、じっとこうしている訳にはいけませんからね。
やっぱり一心不乱に神様に心を向けておりますから、けれども本当に、もう蚊取線香を薫くようになって、もう二十日にもそのへんになりましょうか。その間というものは、本当、蚊取線香を薫いているおかげですね。もう一つも蚊に喰われるだんじゃない、やっぱりその痒いも何も感じさせ、させずにこうやってあの御祈念がでけておったと云う事が有難い。
ですから今日こう、咬まれておると云う事が、本当にもう忘れてから、どうしてこっちゃろうかとは思わないですね。そういう様にその私共がおかげを頂いて、例えば暑いとこう云う事でもです、私どもが今、私ちょっと新聞を見せて頂きましたら、今日、今朝の御理解はどう言う様な事を皆さんに聞いて頂くかと思った。何と書いてあったか。
「生なる喜びに生きん。」と書いて、そこんところを頂いたですね。所謂、生きておる事の喜びに生きん。生きんと、生きようとこう云う事なのですね。本当に暑さ寒さを感じると云う事は、生きておるおかげなんだと。ね。というその生きておる有難さというものがですね、強いものになって来る時にです。私は暑さの苦労、苦しみというな事も、又勿体ない事、有難い事だとなるのじゃないかと、こう思うです。ですから問題は本当に、神様に生かされて生きておるということが、理屈の上ではなくて、実感を通して分からして頂けるということだとね。
「生なる喜びに生きる。」ところがどうですかね。やっぱり暑ければ暑いのです。寒ければ寒い。そこで分からして頂かなければならんことが、いかに私どもが日頃、教えを頂いておって、自分が生きておるとじゃない。生かされて生きておるんだと云う事が、分からして貰うけども、生かされて生きておると実感がどの様に薄いかと云う事を、先ず知らなければいけません。生かされて生きておるというね。理屈にゃ分かっておる。自分で生きておるとじゃない。
天地のお恵みあって、生かされて生きておるのである。この事だけでもです例えば、暑い寒いなんかは生きておると、いうだけでも有難いじゃないか。ある人が熱発して難儀しておった。ある先生がそれに対してから熱があるということは、生きておる証拠ばいと仰ったげなね。また例えばなら四十度近く、近く、近くの大熱に苦労しておる。
お取り次願わして頂いたら、先生が仰られた事がです、熱があると云う事は、生きておる示しばいと仰った。ハァ先生そう所で御座いませんでした。というてそのお礼を申し上げさせて頂いて、おかげを受けたという話を聞いた事があるのですけども、この人がいかにです、常日頃に生かされて、生きておると云う事の信心が分かっておられたかと云う事が分かるですね。
自分がちょっと苦しけりゃ苦しい御座いますと、こう訴えるだけ、けども苦しいと云う事は、もう死んだ者は、痛うもなかばい。痒うなかばいと云う事なんですよね。暑さも感じんばい。寒さも感じんよね。暑さを感じ、寒さも感じ、いや熱があると云う事を感じると云う事は、生きておるという示し、ないかと云う事なん。
もう本当にいやと言う程、この事は金光教の信心を、頂きますと聞かされる話で御座いますよね。生かされて、生きておると云う事は、確かにもう理屈いや、そう事じゃないですも、参って来たんじゃない。参らされて参って来ておるのだ。許されて参って来ておるのだぞ。自分で生きとるんじゃない。本当にお生かしのおかげを頂いておると云う事だけに、対してもです。
暑さも寒さも感じんくらいな、喜びはあるのは、あるのだけれども、その喜びを感じきれないと言う所に、私共の矢張り修行不足というものがあるのじゃないだろうか。それはどう言う様な事かと言うとですね。矢張り私共が、このあんまり当てしっ過ぎとる、という感じですね。
もう生きておる事は、当たり前の様に、生きとる事を当てにしておる。当てぇね、当てなんかは、向こうから外れるというが、向こうから外れる様に、ガッカリした毎日を過ごしておるから、私は生きる喜びというものが、薄くなって来るのじゃなかろうかと思う。ね。
今日も一生懸命にこの事をお願いして来た。どうぞ、どうぞと言うてお願いして来た。当てにして、所が当てしたものは、向こうから外れて来る。だからあぁという、がっかりした気持ちがある。そういうがっかりした気持ちです、暑さに向かうのであるから、あぁ暑い、暑いとうだる様な暑さの中に矢張り暑さを、暑さを、まともに受けなければならないね。
おかげの当てじゃない。信心を頂きに来るのだと云う事だったら、実はもっとましな言わば生きる喜びでも実感としてです、生かされて生きておる喜びが分かるのじゃなかろうかと思う。
昨夜、学生会の方達が教学研究会があった。それも遅うなってからですから先生方、皆交えて、私も居って、居って頂く様に言うんだから居った所が、どうも私が邪魔になるごとあるバイ。居らん方が良かと言うたら、早うかなわんも、早う休んで下さいと若先生が言いますからまあ、その夜中にそれが海水浴に行かんにゃならんもんじゃから、私が居たら行きにくいもんだから。
そんな訳で、私もう久富さんが見えましたから、すぐ裏でこうちょっと寄ったり、二人で裏に下がりました。そしてから久富先生に言うておる事がです、あの今日は、久富繁雄さん方の、お父さんの三年忌があるとお届けがあるとったもんですね。
それで、繁雄さんの、あの饅頭かも知れん、違う、一番沢山持って来なさるけ、しかも持って来なさるけ、学生会のお夜食にそれを出して下さいと言うて、私はあちらに下がったです。それは何時もあの、御仏事の時には、頂く。オモ肥料程いっぱい持って御座たんですよ。所がもう、最近、私が甘いものが食べられんもんですからね。もう甘いものは、本当にないです。
もう全然ないて言うて言う位に、お茶菓子にも困る位にないのです。ですから今夜は来るバイ。今日はあんた共、今夜のお夜食は繁雄さん方からくるお饅頭であのお茶だけをちゃんと、用意は用意しとろうけんで、その饅頭を下げてお供えしたのを、下げてから学生会に出してくれんのちゅうてから、言うて休ませて頂いたら、繁雄さんが見えましたもん。それからあの饅頭はきとるでしょうね言うて、はぁそれが忘れました。
もう当て、当て方、向こうから外れるちゅうて、ほんなこちゃ後に大笑いしました。ウンあそこにちゃんと持って来る、しとってから、あなた今日は月次祭のお供えの事ばっかりが気になっとるもんだから、あの忘れて来ました。それはしもうた。それを取りに行って貰う訳にはいかん、どうするね。今夜はあの人達は夜食はなかバイ。
今久富さんの奥さんがさげて来なさってから、今朝持って来る今朝からもう役に立たん。私共のおかげというものが、そういう事になっておるのではなかろうかとこう思う。だからはぁ、それゃしもうたと言う毎日を過ごしておるから、まあ言葉に出んでも、ああもありたいこうもありたいと願いながら、ああもない、こうもない言うたら反対の方になって行きよる場合にです。
あぁあと言う様な気持ちがです溜め息が出る様な毎日がです。暑さを本当に有難しと乗り切れない元が出来るのじゃなかろうかと私は思うです。
ですから一つ本気で、皆さんがね。おかげを当てにしないで信心をしなければいけませんよ。信心というのは、信心をしなければいかんのですね。そこにはです、もう当てもせん。思いもしない。それこそ夢にも思わなかった様な、おかげと言う物が展開して来る事は、間違いないのですから、その手本が私です、あぁありたい、こうありたいもうこげなお広前でも建立したいなどなんか、もう夢、考えておらなかった事。
はぁもう当てがあるからこそ、まあ参りよったですよ、こげいなおかげを頂きたいばっかりに、参りよるとですよと、はぁそれもです一心発起、願いを立ててお願いするから、金光大神のお取次ぎ働きによって、おかげを受けるので御座いますけれども、そういうおかげは何時もかつも続くものじゃない。そしていかにも、自分の思いにならんと。
神様も当てにならん様な事を言うのですけれども、当てになるならんじゃない。もうそれ以上のものがこちらの信心さえ頂けば、信心さえ育っていけば、頂ける様に、是はもうちゃんと、所謂、それを法則という。そういう決まりがあるのです、天地の中には、私共の内容をこういう風に、高めよったら、おかげが必ず是に伴うおかげが伴う事になっておるね。
ある時に、二代金光様、四神様に、本当にお暑い中にご神勤なっておられる、お参りして来た人が、四神様この暑いのに、日々ご苦労様で御座いますと言うて、ご挨拶申し上げた時に、四神様が仰る。「はぁ年の内にね。暑い、寒いと感ずる日が三日とあろうか」と仰った。一年の中にです、暑い、寒いと感ずる様な日が三日とあろうかと、その三日とても気のせいぞと仰った。
それはもう以前のお広前の暑さと言う物は、たいしたもの、冬は寒い夏は暑い、しかもそれにやぶ蚊までこの沢山おったという話しで御座いますがね。そういう中に、夏冬の、暑さ寒さをじっとお過ごしになられる。ご神勤下さってですおられるのに、暑さ寒さを感じられなかった。
年の内に三日とない。その三日とてもきのせいだとおうせ。その気のせいという気とは、どんな気だろうか。どんな心の事だろうかと。私はやっぱり有難き、勿体なきでおありになったであろうと、こう思うのです。又人が助かる事でさえ出来ればという、一心の神心であっただろうとこう思うのです。うだる様な暑さの中に、暑さを感じんですむ。
有難いとお礼が言えれる様なおかげを頂く為に、私共が今日申します様に、おかげに当てではなくて本当に、所謂生きておるという事だけでも、生きておると云う事が、どの様に尊い。有難い事であるかと云う事を、分からせて頂けれる信心を、頂かなければいけない事を申しましたね。
腹ん立つ様な事が起こって来る事も、悲しい事が起こって来る事も、暑いも寒いも、腹の立つと感ずる事は、生きておる示しなの、死んでしもうたら腹も立たん。悲しいもない。勿論、暑さ寒さもなお感じんのですから、そこんところを理屈分かっただけでなくて、本当に信心を分からさせて、もらうと云う事はです。
そこんところが根本的に分かって来る所から、私は暑さ寒さも感じんですむ様な、おかげが頂けるのじゃなかろうか、と同時に、是はまあ、私共凡夫の事、そこんところが信心が出来ていない者、けども少しは信心が分からせて頂いて、自分が分かって来たという人は、いよいよ自分というものを、本気で見極める事だと思うですね。私は今朝もそれを矢張り感じたです。
ここの蚊はボーンともいうてこんのですよ。小さいが止った、止ったとも感じとらん、ただ痒うなるからはぁその蚊が来とったバイなと、こう思うだけの事。それを最近は蚊取線香を薫いて貰うておりますから、蚊に咬まれもせずに、御祈念が出来ておったのだけれども、今日はそんな事で線香が薫いてなかった。それはもう至る所、蚊に刺されましたけれどもね。
本当を言うたら、蚊取線香ども薫いてから御祈念でも、させて頂ける身分じゃないのだ。そういう資格のある私じゃないのだ大体は、それを今日、分からして頂いたと言う様な気持ち。いよいよ自分と言う者が分からせて頂いたら、もう詫びても、詫びても詫び足らない程の。
お詫びせねばならない事のある一杯の私なの、その詫びておる者がです暑いとか、寒いとか不平不足どん言いよるだんじゃあないと言うこと。是が大体、私ども凡夫では、一番早い様ですね。自分自身が分かる。それとてもです私は本気で、自分というものを見極めなかったらやっぱり、暑いは暑い。寒いは寒い。暑いは暑い、寒いは寒い。
けれども暑い、寒いども言えれる私ではないと云う事はですね、そこを辛抱しよい、そこに私は、四神様が仰られたという。暑い寒いという日が、三日とあろうかと年の内に、その三日とも気のせいだと仰る様な私はそういう真剣な。自分を見極め自分を分からせて貰う所から、詫びの生活に入る。そこには不平不足は言えないものが必ず出けて来る。不平不足を言うだんじゃない。
そこに信心の喜びが湧いて来る。その喜びが暑さ寒さも、感じさせないで済む様なおかげを受ける。同時に私どもは、日頃の信心をもっと真剣に取り組ませて頂いてね、はぁ今日もお目覚めのおかげを頂いて、有難い。もし目が覚めていなかったら、もう明日は火葬場行きなんだ。目が覚めたというだけでも有難い。
今日も生きておったと云う事の喜び、もっともっと深く分からせて頂ける様にならして頂く。そういう信心を頂いたら、もっと素晴らしい暑さ、寒さを感じんで済む様なおかげになって来るでしょうね。
どうぞ。